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図書館とメロディロードと命ということ。

不思議な組み合わせである。
たまに、ブログなどを書こうとすると…こういうことになる。

両親が他界し、自分も五十路を越えて、何やら「寿命」とか「命」とか「魂」などを考えたりする。人はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか。人類の歴史と同じくらい様々な宗教がそれを語り、偉人たちが悟りを開き、教祖となり…いまや世界はスピリチュアルであふれている。

僕自身も、宗教やスピリチュアルな不思議話は嫌いではないのだが、どうも最近あの「スピリチュアル用語」が耳につくようになってしまった。例えば「前世」や「過去世」とか、「あの世」とか「ハイアーセルフ」だとか…そんな言葉を使わなくても説明できるだろう時代になってきても、相変わらずの専門用語。ちなみに…ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)さんは「一般庶民に分かる言葉で説明しなさい」との教えを説かれたにも関わらず、現代語訳もしない呪文のようなお経をあげている今日を、どんな気持ちでいるのやら…。

さて…そんななかで、僕は図書館に務めている。
ここにいるととても不思議な感覚になる。
本棚に並んでいる本は、それこそ宇宙の始まった137億年のビックバンの話しから、46億年前に地球が誕生し、人類が生まれ様々な歴史をたどり、今日からさらに未来への空想や創造をふくらませた物語までが、ひとつの建物の中のひとつのフロアに収まっているのだ。ここには始まりもあり終わりもある。いうなればα(アルファ)でありω(オメガ)なのである。
人はそのときどきに、書棚から本を出し、ページをめくる。すると突然その本の中の物語が再生され、私たちはしばらくの時間、その本の中の物語を生きていたりする。
本の取り出し方は順不同。ランダムアクセス、過去から未来、未来から過去。日本から他の国のはて、地球から宇宙の星々、そしてまた海底や地底へ…。それほどまでに自由でありなんら制約をうけずに私たちは物語の世界を行き来することができる。同じ本を繰り替えし読むこともある。何度も何度も。また、似たような物語を続けて読む事もある。

例えばそれは、魂とか命とか生きるといことの本質に近いものではないだろうか?
そう。今生きている私自身は、私自身という本を開きその物語を読んでいるようなもの。最後のページを閉じたときが、人生の終わり=すなわち死である。が,そこで終わりではない。「あぁ、おもしろかった。次はどれを読もうかな」なのではないか。そんな気がしているのだ。

坂本龍馬の物語も、ナポレオンの物語も、最初から最後まではそれぞれ本になっていて、それを「読む」ことで、ほんのひととき、ほんのつかの間のような時間を私たちは「生きている」のではないか。

また…図書館とは違うがちょっとばかりおもしろい体験もある。
富士吉田から富士山5合目に向かう「富士スバルライン」という有料道路がある(途中までは無料)。ここにメロディーロードがる。道路に狭い間隔で細い溝がつけられているとタイヤが音をたてる現象をご存知だろうか? これは溝の幅を変えることで[音程]をつくることができる。この富士スバルラインには、上りにも下りにもこの仕組みでタイヤがメロディを奏でる箇所があるのだ。しかも曲は「富士山」。この道路には数100mの間に曲の始まりと終わりがある。自分の走行と同時に曲が再生される。区間が終わると曲も終わる。まぁ、これだけのことなのだが、ふと…後続車が気になった。私が奏でた曲と同じ曲を少し違うタイミングで再生しながら後ろを走っているのだ。もちろん僕の前を走っている車も僕よりも先の部分を奏でているに違いない。
これは本に例えれば、一冊の本を複数の人間が同時に同じページだけでなく違うページを読んでいることと同じである。本ならば同時に何千部、何万部が印刷され市場に出回るので、同じ本を同時にあるいは違うタイミングで、同じページあるいは違うページを、複数の人たちが[読む=再生]しているのである。

一冊の本に、1枚のCDに、1枚のDVDに、1本の道(?)に。 過去も現在も未来も記録されており、そこを[私の視点]がピックアップすることで物語が再生され、私たちはほんのつかの間その物語世界に身を委ねている。これは「生きている」ことに似てはいないだろうか?

そして…よ〜くみてください、ね。
この言葉を。「再び」「生きる」と書いて「再生(=Play)」なんですよ。

普通の言葉でしょう。スピリチュアルな言葉を使わなくても、語れることがあるのです。
by maruyama_takahiro | 2011-11-27 01:31 | ひとりごと...
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