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物語の力(「私」という物語)

今日は「物語の力」をデジタルやネットワークとは違う視点で。

「私」という物語
 人は誰でもどんな人でも、一生にひとつの物語を紡ぐ事ができる。それは「私」という物語だ。どこかの小説家が、文書教室風な場で語る事らしいが、ぼくもそうだと思う。この世に生をうけて、あの世にいくまでの、ほんの数十年間の間。これは「命が紡ぎ出す物語」なんだ。そう僕は考えています。そしてまさに、丸山高弘物語の50年目に突入するいま、この先どこで物語が終わるのか…いやいや、まだまだこれからがクライマックスだぜ!と激動の物語を生きるのか…どちらにしても、人生=物語説は、真実だと考えている。

三つ子の魂百まで
 そんな諺(ことわざ)がある。双子や三つ子ちゃんの話ではない(あたりまえだと思うだろうけど、僕自身けっこう大人になるまでほんとうに三つ子ちゃんのことだと思っていた。代表格はトン吉、チン平、カン太、おやつあげないわよ!)。
 この三つ子は、三歳児のことを指す。三歳あたりで培った感覚、経験、記憶…それは意識する/しないに関わらず百歳まで影響するのだ…ということを経験知として諺化したもの。これはこれでたぶんある程度は正しいのだと思う。この言葉を別のアプローチからは「人は三歳くらいに、自分の人生のシナリオをほぼつくってしかう」とか「三歳くらいに、自分という物語の主人公のキャラクタ設定を作ってしまう」という意見もあるようだ。
 そう。いわゆる物心つくときに、この先の人生を生きるために「私という主人公の性格設定」は不可欠。親との関係においても、兄弟姉妹や、親戚や、保育園/幼稚園などの集団生活などにおいても、まずは「自分というキャラクター」を形づくっておくことは、生きる知恵として充分に考えられる。たぶん、この諺に込められた想いは、そんな意味なのかもしれない。

三つ子でつくるキャラクター
 三歳児が突然自分と言うキャラクター設定が出来る訳ではない。当然ながら、その「モデル」の存在が欠かせないのだが…三歳児までが出会うモデルとなるキャラクターは、当然ながら「親」であり、「兄弟姉妹」である。この限られたモデルの中から取捨選択しながら、自分というキャラクターを設定しなければならないのは、いささか不自由である。さすがに三歳児はそのことを充分に心得ているようで、このあたりから自主的に「お話し読んでー」が始まる。もちろんはやい子は片言が話せるようになると言い始める。自分の言葉が発せないうちからも、実はこの[キャラクター設定モデル要求]は始まっていたりする。という理由のもとで、僕はブックスタートを始めとした乳幼児からの親による読み聞かせは、その子自身の「キャラクター設定モデルづくり」に欠かせない栄養素だと考えている。選択肢が多いほど、組み合わせる性格が多いほど、自分自身のキャラクターづくりにはバリエーションが増える。またこの時期のテレビ番組のヒーロー/ヒロインからの影響も実は少なくない。幼児期に熱中したヒーロー/ヒロインによる[正義感のタネ]は、三つ子の魂を作る上でも必要な栄養素のひとつなのではないか…と、考えている。

三つ子までのキャラクター設定
 正直なところ三歳児までに…と限定する根拠はないのだが、親が子どもにできることとして

1.お腹の中にいるときから話しかける/物語を聞かせる。
2.生まれてからもできるだけいろいろな物語を聞かせてあげる。
3.言葉とか知恵とかよりも、お話しのバリエーション(バランスのよい栄養)を与えてあげる
4.子どもは、親が自分のために時間を割いてくれることがまず嬉しいものだと思って接する
5.子ども自身が持ち始めるヒーロー/ヒロイン像を大切にする。

まぁ、そんなことをしているうちに、三歳児ながらも「僕は正義の味方」とか「私は小さい子にやさしくするお姉さん」とか、そんなキャラクター設定をし、それは恐ろしい事に百歳まで影響したりする。
だからこそ、身近な大人(親の場合が多いが親に限定する訳ではない)が、子どもたちに古今東西、多種多様な物語を読んで聞かせてあげることは、とっても大切なことなのだと、僕は考えている。

キャラクター設定が本人の意思だけではないという問題点
 このキャラクター設定には、本人の意思が最優先されることではあるのだけれど、実はこんなものが影響したりする。
 1)親との関係性、親からの期待に応えるキャラクターづくり
 2)兄/姉との関係性、弟・妹としての役割づくり
 3)弟/妹との関係性、兄・姉としての役割づくり
 4)近所の子どもたち集団、自然に生まれる上下関係の中での役割づくり
 5)親戚/親類/縁者との関係の中でのキャラクターづくり
 人間はどんなに小さな子どもでも社会性の中で生きていることには変わりないので、どうしてもその関係性の中で、自分が望むと望まざるとに関わらず何らかの役割を演じるキャラクターを作ってしまう。そして一度できてしまった関係性の中でのキャラクター設定は、本当に恐ろしいくらいに…たぶん諺通り百歳まで変わらないのだ。(ほんとに、実に恐ろしい事です)

このキャラクター設定は物語なのだ
 さて、ことわざをそのまま受け取れば、三歳児につくった自分というキャラクター設定は百歳まで影響し続ける…となりますが、考えてもみてください。これは自分自身で書くシナリオなんです。当然ながら自分自身で書き直すこともできるのです。そのことにまず気がつくことが大切です。これも「物語の力」といえるでしょう。自分自身の物語は、自分自身で書きながら私の人生を生きている。そう意識できることが何よりも大切。そう意識できれば自分の力で書き換えることも不可能ではないのです。
 ただ…前述のとおり、関係性の中でできてしまった役割づくりは、自分自身ではなかなか書き換えることができません。書き換えが難しいなぁ…と意識するところからはじまりますが、本当に全面的に書き換えが必要だと思ったら…例え、親兄弟親戚であっても、いったん距離を置く事も大切です。
 正直なところ、これを僕は実感しました。どうしても親戚が集まる場所では、その関係性の中での[役割キャラクター]が出て来てしまいます。同級会などでもそう。場合によっては前の会社の上司や部下などと出会ってしまった場合もそう。その時の[関係性の役割キャラ]が出て来てしまうのです。

人生は選択の連続、物語もまた選択の連続
 私という人生は物語である。そして私と言うキャラクターを設定したのも私自身である。そんな中で、様々な状況で、場面場面で決断をし、人生を生きるわけなのだけれど、ここで「物語の力」がとても大切になる。
 これは、図書館という場が『人生のQ&Aに満ちている』と感じてから、なお一層強まって来た。親友の彼氏を好きになっちゃった…。会社存亡の危機。大切な試験に落ちてしまって人生絶望のどん底…などなど、極端な出来事もあれば、ごくごく日常的なこともあるけど、古今東西、老若男女、津々浦々…の物語をくまなく探せば、私が今直面している課題を解決するためのヒントが書かれている物語がある。私のこの状況は人類史上私がまったくの初めて!なんてことは、まず無い。と思うほど、なのである。極論すれば、史実も創作も神話もドキュメンタリーもありとあらゆる物語には、「これからを生きる人のための人生のヒント、人生のQ&Aが書かれている」と僕は確信している。

 正直なところ、今の図書館ではそのための検索方法、検索手段を持ち合わせていはいない。ただ、今後は「文献を探すのが図書館」という枠から離れて、「私が直面している状況に似ている物語を探して、その登場人物たちはどう解決したの、さらにどんな課題に直面したの?」という問いかけに応え相応しい物語を探し出すお手伝いをしていきたいと考えている。

 「物語」は、単純に文学としての芸術鑑賞でもなければ、レクリエーションとしての時間つぶしではない。そこには「人生のQ&A」に満ちあふれた世界があるのだ。

 僕は「物語の真の力」は、そんなところにあるのだと、考えながら図書館の仕事をしていたりする。
by maruyama_takahiro | 2011-01-08 00:39 | 日々是電網
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