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なぜ、東日本大震災だけがアーカイブの対象になるのか。

7月7日〜10日にかけて、盛岡/陸前高田/遠野/大槌…と行って来てから、少しばかりいろいろなことに手がつかなくなってしまいました。

それというのも、タイトルにもあるような疑問にすらならないような、なにかぼんやりした不安みたいなものがつきまとってしまっているようなのです。

どうして…東日本大震災がアーカイブの対象になるのでしょうか?
実際に現地にでかけて、僕もたくさんの写真を撮って来ました。中には津波で壊された個人宅ですら、写真を撮ってしまいました。そしてとても感じるのは、「僕は本当にこの風景を撮影していいのだろうか?」という疑問です。

何の縁もゆかりもない一個人が、被災地の…しかも[被災後]の風景だけを撮影する。
まず、この行為に対する…すごく深い[申し訳ない気持ち]。

そして何よりも、東日本大震災に限らず、阪神淡路大震災、中越地震、宮城・岩手内陸地震、地震以外にも多くの自然災害で破壊された人々の暮らしや変わってしまった風景があるのに、それらはアーカイブしようという気持ちにならなかったのに、なぜ東日本大震災だけがこれほどまでにアーカイブの対象になってしまうのか。
今現在でも、長野県栄村の被災状況もあるけど、それはアーカイブの対象にならない。
山体が崩壊した栗駒山だって、元の姿には戻っていない(まず無理)。
でも、それらはアーカイブの対象にはならないし、アーカイブしようとはしていない…。

この違いの、気持ち悪さ。

僕がそのことに気がついたのは、この方のアーカイブを見直してからです。

 ・災害写真(撮影:井口隆) flickr

井口(いのぐち)さんは、防災科学の観点から被災地の記録をアーカイブしているのですが、それらのほとんどの写真は[被災後]の姿なんです。家のリフォームなどでよく言う、befor / after でいえば afterのみ。そしてこれらの災害の写真から感じることは、元の風景を誰も記録していない…ということ。
ほとんどの写真は、被災してからの姿であり、そして被災してからは元の姿を撮影できないということ。

ここから僕は、ひとつの結論にたどりつけそうな気がしている。
それは

 被災地の写真を撮る時間があったら、
 今自分自身が住んでいる街の日々の姿を記録すべきじゃないのか。

 今住んでいる街が、いつどのような災害に見舞われ、その姿を変えてしまうかもしれない。そう考えると、使うべき時間は被災地の記録だけではない…そんな気がしてしかたがないのです。

 もちろん一方で、グーグルのストリートビューのようなアーカイブも存在していることを考えると、誰も彼もが自分の街を撮影し記録する必要はないだろう…という意見もあるかと思う。
 ただ、同じ場所でも季節や時間(朝・昼・夜など)ごとの風景があったりもする。

 僕は…デジタルアーカイブに関心を持っている多くの方々に伝えたい。

 「今、あなたの住んでいる街の姿を、記録してみませんか?」

と。

 僕は被災地を撮影しながら、なんともいえぬ居心地の悪さは、たぶん…そんなところに由来しているように、思うのだ。
by maruyama_takahiro | 2011-07-24 01:43 | DigitalArchives
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