丸山高弘の日々是電網 The First.
2017-11-11T19:12:32+09:00
maruyama_takahiro
ネチズンもすなるブログというものを....
Excite Blog
本のイノベーション(技術革新)を考える
http://maru3.exblog.jp/237974289/
2017-11-11T17:10:00+09:00
2017-11-11T19:12:32+09:00
2017-11-11T17:10:45+09:00
maruyama_takahiro
日々是電網
facebookでもいいかな〜と思ったのですが、ちょっと長くなりそうだったのでブログに書き留めて起きます。
僕は山中湖情報創造館という図書館機能を有する施設の指定管理者館長をしています。さぞや「本が好き」な人なのだろう…と、思われがちですが、実は…本は嫌いではないが、手放しで好きなわけでもない。というのが本当のところです。昨今「電子書籍」といった新しいカタチの本があるから、それはイノベーション(技術革新)だろう〜と言われる人もいらっしゃいますので、まずは「電子書籍」について
○ 電子書籍は本のイノベーションではないのか?
ひとつの見方でいえば、電子書籍端末やスマートフォンやタブレット、そしてパソコンを使って読む電子書籍は、技術革新だと思います。ただ、正直なところ「紙の本の模造品」的な電子書籍なのです。かつて本がデジタル化される…という時代をみてきたものとしては、そこに「ハイパーカード」や、それをプラットフォームにした「エキスパンド・ブック」といった、紙の本ではできない「デジタル」だからこそ表現可能な本のスタイルがありました。文字や図版だけでなく、動画や音声、3Dデータなどを含めたコンテンツです。エキスパンドブックはその後ハイパーカードを離れ、独自のプラットホームを持つに至りましたが、残念なことに今日当時の電子出版物さえ見ることはできなくなりました。また、Apple社のiBooks AuthorやAdobe社のInDesignなども、実はマルチメディアコンテンツの本を作るためのツールとして登場していましたが、残念なくらい動画や音声など紙の本を超える本は…ごくたまにあるくらいです。電子書籍フォーマットであるePUB(イーパブ)も、そのフォーマットには規格されているにもかかわらず、デジタルならではの表現をもった本はメジャーな出版物としては登場していません。そうこうしているうちに、紙の本と同様の電子書籍、電子コミックが登場し、それこそがデジタルによる本の技術革新…というのは、少し寂しい気もしています。いまのところ「デジタルでなければ表現できない本のスタイル」には至っていない…と、僕は思っています。
○ 知識に重さはないはずなのに、本になったとたんに重さを感じる。
本に対する不満のひとつに、その[重さ]があります。紙を使っているのだから重たいのはあたりまえだろう!って怒られそうですし、一方の業界からは、だったら電子書籍端末に電子書籍をいれれば、何冊いれたって重さは増えない!っていわれそうです…が、では「紙の本は軽量化に取り組んだか」といえば、それはほとんどありません。判型(本の大きさ)こそ、単行本や新書、文庫版といったあるていの規格サイズにこそなりましたら、ページに使っている紙、表紙、本全体の軽量化に取り組んだということは耳にしていません。これはとりもなおさず、輸送費や倉庫の重量に耐えられる…といったことにも繋がるので、歓迎すべきことだとおもいますし、個人の本好きが本の重さでアパートの二階の床が抜けた…というニュースも、ごくたまにですが耳にします。先日も地元中学生のキャリア教育の一環として図書館の仕事を体験してもらいましたが、その時の感想に「意外と重労働なんですね」とも言われてしましました。
本に書かれている文字も写真も図も、そこから読み解ける知識にも物理的な「重さ」はありません。しかしそれが「本」になったとたんに重さを持ち、それが当たり前として軽量化に取り組むこともなく今日に至ったことは、すこしだけ悲しく思っているのです。
○ 本はこの百数十年、記録容量に大きな変化はない。
パソコンの世界には「フロッピーディスク」という記憶媒体があった。さらにその前のマイコンの時代にはカセットテープも使っていたこともあった。フロッピーディスクには8インチ、5インチ、そしてプラスチックケースに入った3.5インチがあり、比較的3.5インチフロッピーディスクは、2HD 1.44MB(メガバイト)の時代が長く続いた。同時に大容量には、MO(エムオー)640MB やZIP(ジップ)750MBなどが登場したり、CD-R 740MB などの書き込み可能なディスクも登場してきた。
そうこうしているうちに、デジタルカメラなどの登場により、磁気記憶装置からシリコンチップへの記憶媒体が登場し、昨今ではUSBメモリやSDカードなどで、8GB、16GB、32GB、64GB、128GBなど…3.5FDの時代からは、恐ろしいほどの大容量化が進んだ。しかも、しかもである。大きさは1/10なんてもんじゃない。
例えば、3.5インチフロッピーディスクの容量を縦横1.2cmの1.44㎠と仮定すると、1GBは縦横32cmの面積=1,024㎠になる。USBメモリやSDカードの4GBや8GB、16GBなどは、この1,024㎠が4面、8面、16面もあることになる。しかもこれらの物理的サイズの比較をすると左から3.5インチFD、SDカード、microSDカードである。デジタル系の業界がこの数十年間にこれだけの記録容量を激変させている一方で、紙の本の記録容量には…百数十年間大きな変化は、無い。
○ 本を読むには時間がかかる
本好きの人には当たり前に聞こえるかもしれない。だが本を読まない人…出版マーケティング的には「未開拓の潜在顧客」の多くは、本を読まない理由に「読む時間がないから」と答えている。それに対して本を作る側はどうしているだろうか。短時間で読める本を作る努力や創意工夫をしているのだろうか? 例えばデッサンや絵画、彫刻・彫塑のジャンルでは、「まずは大まかに全体像を捉え」「それから徐々に細部を描き/作り」「最後は丁寧にディティールを仕上げる」くらいの段階を踏む。中にはいきなり材木から指先を削り出す彫刻家やいきなり細部を描き出す画家もいるにはいるが、ごく希少な存在である。このように読書においても、一度ではなく、まずは全体像を把握、徐々に細部を読み、最後は一字一句を読んでいく…ような段階的読書方法だって有ると思っている。だが、残念なことに、そのような読書スタイルに対応した出版物は、みあたらない。(ビジネス書系にはあるかもしれないが)
本のイノベーションのタネとして「読者に時間をかけずに本を読むための工夫」みたいなところに、技術革新はあるかもしれない…と、思っている。
○ 本を読んでも覚えていられない(忘れちゃう!)
時間の無い中で、読書の時間を作り、一字一句丁寧に読むことができたとしよう。問題はその次だ。「読んだ内容をすぐに忘れてしまう」のだ。これは読者側の能力の問題…といってしまえば、それまでだが、もう一方で「記憶に残らない本を作っている」という感覚を持って欲しい。一度読んだら忘れない本。書いて有る内容…いやむしろ著者が伝えたい内容を読者が忘れないようにする工夫。そんなところに、本のイノベーションのネタが埋まっていると思う。
場合によっては、読み終えても登場人物の…いや主人公の名前すら覚えていないこともある。読み終えたはずの本の内容を誰かに伝えたくても、読み終えたことは覚えていてもどんな内容だったかを人に説明できるほど記憶していない…のだ。
人の記憶は不確かな一方で、とんでもない瞬間を記憶していることがある。雑誌のページをぺらぺらめくりながら、読み飛ばしたページの右上にあった絵が何か気になったのだけど、そのページを探せない…みたいなことが、僕にはある。パラパラとめくっているだけのページのはずなのに、特定の文字(キーワード)だけが目に入って記憶しているのだけれど、そのページを探すのにこれまた時間がかかったりもする。ぼくだけの症状なのか、他の人にもあるのかはしれないけれど、『ぱらぱらとページをめくるだけでも記憶に残る編集方法』がありはしないだろうか。
また、記憶の濃淡/強弱…ここだけは覚えて欲しい。みたいな編集方法もありそうに思うのだ。
○ 僕たちは何のために読書をするのか。
本を読み終えたことだけは覚えているけれど、主人公の名前も登場人物の名前も、いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした…いわゆる5W1Hを他人に伝えられるほど、読書をしても記憶しているわけでは無い。村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだ人は、主人公の名前を言えるか自問してみるといい。
さて、一方で読書は学びのためにする…ということも言える。知識や他人の経験を追体験するのもまた読書の役割だと思う。ただ本当に著者が伝えたい知識が、ちゃんと伝達できているのだろうか?いや、そもそも「知識」とは何かという定義すらあいまいではないか。いやいや世の中には「知識工学」といものがあってだな〜…と、あれやこれや。
読了後、内容を覚えていないのはしかたがないと譲っても、知識として何が得られたのか…は、重要な問題だ。これはいわゆる「費用対効果」。本を買うにしても、仮に無料の図書館で借りるにしても交通費や時間などの労力をかけるわけだから、それに見合うだけの見返りがなければならない。
一字一句暗記しなくてもいい、内容の5W1Hを誰かに伝えられなくてもいい。だけど『読んだことで知識を得る』ことができなければ、もう本などは買わない。
そういう意味で、読了後『知識を得られる本』『得られた知識を忘れない本』そういう本を著者は書くべきだと思うし、編集し出版する側も、そこに本のイノベーションのネタが眠っていることを考えて欲しいと思っている。
あとがき
実はなぜこんなことを書いたかといえば、とある人から「丸山さんも本を出したら〜」と言われたからなのだ。常日頃から「今の本には他の産業のようなイノベーションが無い」と言っているだけに、自分で出す本が、まったくのイノベーションの無い本だったら、もう誰も丸山の言葉に耳を貸さなくなるだろう。もし僕が書く本があるとしたら、少しでも従来の本とは違う「イノベーティブ」な部分を持っている本にしたい…と、思い立ったので、こんなことを書き出してみた。
もちろん、印刷や製本、編集の製造サイドにおいては、版木から活字、写植を経てDTPへと大きな変化があったし、それにより生まれて没した産業があることも知っている(活字産業は写植産業によって消え、写植産業はDTPの登場によって消えました)。
ここまで読んでいただいた人がいらっしゃったら、深く感謝いたします。
本に対する愛と憎しみと屈折した思いをもちながら、この情報や知識や物語の世界に、まだしばらくはいる予定です。
ありがとうございました。
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多種類情報資源相互参照システム2016
http://maru3.exblog.jp/22537122/
2016-02-28T22:47:00+09:00
2016-02-29T00:17:29+09:00
2016-02-28T22:47:16+09:00
maruyama_takahiro
SuperOPAC開発日記
これは、たぶん…丸山自身が1999年あたりから取り組んでいたことを、いとも簡単にあっさりと実現させてくれる可能性をもったデータベースだと確信すらしています。
僕がいま注目しているグラフデータベースは、こちら。
・Neo4j http://www.neo4j.com/
これを少しさわりながら、データ入力の効率化に、これまでに作ってきた「多種類情報資源相互参照システム」が使えないかなぁ〜と思ったところ、なんと! これまでのシステムを根本的にバージョンアップさせるアイデアがグラフデータベースからもたらされました。
正直なところ、2016年になって「多種類情報資源相互参照システム」をバージョンアップさせることになろうとは、感動するほどのおどろきでした。
ということで、このブログはその感動を少しでもわかっていただければ…と、思って書き始めていますが、できるだけ簡易な言葉でかきますので、どうぞお付き合いいただければ、幸いです。
【第1世代多種類情報資源相互参照システム】
まずは一般的な、多対多のデータベースを考えます。
一般的なリレーショナルデータベースは、簡単にいえばエクセルの表のようなものです。A,B,Cとならぶ列の方向に、人物データベース(テーブル)ならば、整理番号(ID番号)、名前、ふりがな、性別、生年月日などの項目をつくり、1行方向に一人目、二人目、三人目…と、レコードを追加していきます。この人物テーブルとは別に団体テーブルを作ります。団体番号、名称、代表者、住所、などなど。
そして、この人物テーブルと団体テーブルという種類の異なるテーブルを関連付けます。一人の個人が複数の団体に関係性をもち、ひとつの団体が複数の人物と関係性を持つので、ここでは[多対多]の関連付けが必要となります。その際には、両方の関係性を記述するための関連付けのテーブルが必要です。関連付けテーブルには、人物ID、団体ID、関係性という項目を用意します。人物テーブルの人物IDと関連付けテーブルの人物IDをつなぎ、団体テーブルの団体IDと関連付けテーブルの団体IDを関連付けます。これにより人物と団体とが[多対多]の関連づけを持つシステムをつくることができます。
しかしこれには、とても大きな問題がありました。人物と団体だけでなく、場所や出来事、その他のアイテムを相互に関連づけるとなると、それぞれに[関連付けテーブル]を用意しなければなりません。しかもその多対多の関連付けテーブルは、2つの種類なら1つ、5つの種類なら6つ、6つの種類なら10こという具合に、多種類になればなるほど、その関連付けテーブルが増えてしまうのです。
これでは、ちょっとした変更に対してもとても大きな負担が発生します。
関連付けひとつとっても、固定化された関係性よりも、関係性にも始まりと終わりがあったり、様々な関係性の属性が生まれることもあります。そうした変更に対応するには、このシステムでは膨大な手数がかかってしまいます。
そこで、次に考えたのがこちら。
【第2世代の多種類情報資源相互参照システム】
最初の多種類情報資源相互参照システムは、まずは多種類の情報資源の共通部分を抜き出して、ユニティテーブルを用意します。このユニティテーブルは、情報の種類(タイプ)によって、それぞれ人物テーブル、団体テーブル、場所テーブル、出来事テーブルなど個別の項目を用意したテーブルを1対1で関連づけます。これにより、ユニティは種類によって多種類の情報を扱うことができるようになり、新しい情報資源の種類が増えても、このユニティテーブルと新しい情報資源のテーブルとを1対1で繋げばよいだけになります。関連付けも、1つのユニティテーブルをA、関連するBにもユニティテーブルを接続することで、相互参照する基本的な仕組みは1つの関連付けテーブルで実現できます。これならば、関連付けテーブルに後から属性を追加するのも簡単になり、メンテナンスの手間が大幅に削減できます。FileMaker Proで実現する場合は、情報の種類(タイプ)によって表示するレイアウトを変更することで、それぞれの種類の項目のみを表示させることができます。欠点としては、それぞれの情報種類のID番号に重複が生まれてしまうこともあり、レイアウト切り替えだけがたより…になるということがあります。(例えば、ひとつのユニティIDが、人物テーブルにも場所テーブルにも入力可能で、レイアウトの切り替えを間違えると、別の情報がリンクされてしまうことがあります)。
それでも、かなり有効に使えてきていて、このデータベース構造は実験用OPACに使っていたりします。そして昨日、グラフデータベースを勉強している中で、なんとかデータ入力を効率化してやろうと思って、FileMaker Proを使ったシステムをつくろうとした瞬間に、それは起こったのでした!
【第3世代 多種類情報資源相互参照システム】
グラフデータベースが、ノード(点)とリレーション(線)でできているという特徴があり、Neo4jの場合は、それぞれのプロパティ(属性)も付与されています。実はそれをそのまま、FileMaker Pro というRDBで表現すると、上記の図のようになるのです。
ノードテーブルには、ノードIDとラベル(第二世代でいうところのタイプ)があり、関連付けのリレーションテーブルにはノードA側ID、ノードB側のID、関連性があればOK!
正直なところ、「え!これでよかったのか。」という驚きです。
多種類情報資源は、ラベルの記述によって変更します。ここに、人物、団体、場所、出来事、アイテム…などなどの情報資源の種類を記入。さらにそれらの各項目は、ノードとノードプロパティテーブルを1対1で接続し、いわゆる入力項目は、必要に応じて、Key(キー:項目)とValue(バリュー:値)で、必要な項目と必要な分だけ入力する…という形式にすることができます。これで、人物データベース用の項目、団体データベース用の項目等などを、あらかじめ用意する必要がなくなるのです。データベース的な言い方をすれば、あらかじめスキーマ(データベース構造)を決めなくてもいい!…という画期的な「多種類情報資源相互参照システム」ができあがるのです。パチパチパチ! 一昨日の早朝におもいつき、早速FileMaker Proで実装中。この基本構造に加え、作業効率化のための項目も付け加えながら、システムを構築中で、そのシステムによってNeo4jの入力作業の効率(入力用のテキストデータ作成)の手間が大幅に削減される見通。
で…ここで疑問???FileMaker Proで実装できるなら、わざわざNeo4jを使わなくてもいいじゃないか?そう。単純な検索ならば、それでもよいのですが、そこはグラフデータベースの強い[グラフ理論による検索]を必要としているからなのです。これはFileMekerや他のRDB(SQL)では不可能に近い。
ということで、この感動(?)を少しでも共有できれば幸いです。
また、4月以降「グラフデータベース勉強会」を小さいながらも始めてみたいなぁ〜と思っています。興味・関心のある方は、ぜひ山中湖情報創造館のサイトをチェックしていてください。では、また。
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本の索引から人工知能へ
http://maru3.exblog.jp/21756625/
2015-10-20T10:26:00+09:00
2015-10-23T00:12:04+09:00
2015-10-20T10:26:04+09:00
maruyama_takahiro
SuperOPAC開発日記
本の索引がなぜ、人工知能につながるのか…。
本を検索するための書誌データがあり、全文検索は技術的に可能だが権利的にムニャムニャ〜。でも権利的に問題なく、しかも人工知能社会に貢献…いや貢献どころか、人工知能を支える知識ベースは、図書館に存在していることに、気がついて欲しいと思うのだ。
本の索引
図書館の仕事を初めて10年以上になる。最初は図書館業界でも有名な我らが理事長の元、門前の小僧もなんとやらで、図書館に対してはど素人でもそれなりに勉強しながらやってこれた。当初より僕は「図書館の本をバラバラに分解したい」と思っている、図書館業界にはあるまじき考え方の持ち主ではあったが、多分それは、今でも変わらない。物理的にバラすことができないならば、デジタル的にバラすことはできないか。バラしたのちに再構築できる技術はないだろうか?などと考えたものである。最初は図鑑や辞典などの項目ごとに解体できないだろうか? などと思っていたが、本には索引があるじゃないか!と改めて本のページを開くと、これがまたすごいことになっている。
日本の書籍には「索引」が欠落している。
諸外国のいわゆる洋書を紐解けば、児童向けの十数ページの本であっても1ページ程度のINDEXが付いている。またドキュメンタリーや伝記においては、INDEXの充実ぶりは目をみはるものがある。日本語に翻訳された書籍ではINDEXも翻訳されるものもあるが、必ずしもすべてではない。原書にはあったINDEXが、邦訳では削除されている事例も見受けられる。
それほどまでに、日本語の書籍には「索引」が少ない。
理由はいろいろあろうが、索引は著者が作るもの、いやいや編集部が作らなければ、そんな時間はないから外注に、おいおいそんなコストは出せないと出版社…と、まぁこんな感じで『日本の書籍には索引がない』状態が、今もなお続いている。逆に言えば、これは未開拓の地が広がっている…とも言える。まだまだ、開拓できる知的フロンティアが、図書館には存在している。
索引データベースを作る
すでに索引の付いている本から、索引をデータベース化する。
1冊の本に対して索引を作る…データベース的に言えば、本1冊を1レコードとしたデータベースに、索引フィールドを作成し、複数行の索引データを入力する方法もあるが、これでは次の応用ができない。
書籍データベースに、索引フィールドを作るのではなく、書籍データベースとは別に、索引データベースを作り、リレーションを取る。リレーショナルを使うことで、何件になるわからない索引を1行1件で蓄積するデータベースを構築することができる。何をリレーションのキーにするかは見当が必要であるが、書籍データベースとは別に、索引データベースを構築することで、むしろ「総合的な索引データベース」を構築することができる。
同じ見出語の索引を持つ書籍には、何があるか。それぞれ何ページにその見出語が掲載されているか。複数の本にわたって総合索引データベースが構築出来れば、それだけでも図書館の使い勝手は大きく向上する。
実のところ、今での「レファレンス辞典」という形で、図鑑や辞典などの見出語とその掲載文献をまとめたものはある。しかし、業界向けということもあり非常に高価なのだ。また、児童向けではないし、子供向けの図鑑は対象外である。
この総合索引データベースを、図書館が自ら作るようになることで、図書館の使い勝手向上を図る余地は、とても大きいと思うのだ。
総合索引データベースにおけるフィールドの基本構造は、
[索引ID]
[見出語(索引語)]
[見出語ふりがな]
[書籍ID]
[掲載ページ]
これに、若干利便性を高めるためのフィールドを幾つか付け加える感じ。
索引データベースから見出語を抽出
総合索引データベースは、一件一件の索引情報を入力するものですが、この索引データベースで登場する[見出語(索引語)]を抽出する作業が必要である。
見出語データベースあるいは見出語マスターと言ってもいい。
見出語マスターの基本構造は、
[見出語ID]
[見出語]
[見出語(ふりがな)]
ど、同時に、総合索引データベースのフィールドに[見出語ID]を追加する必要がある。
見出語マスターは、索引語から抽出したものであるが、そこにはちょっとした落とし穴がある。[同意語]の問題だ。同意語という以前に、例えば人名表記(特に外国人)に関しては、実に様々ものが登場する。例えば、アインシュタイン。すでにテストケースで作っていても、これだけある。
アインシュタイン
アインシュタイン, アルバート
アインシュタイン、アルベルト
(アルベルト・)アインシュタイン
これらが同じ人物の名前であることを捉えなければならない。そこで、総合索引データベースと見出語マスターとを、多対多でリレーションする必要があり、そのためのデータベースを一つ間に入れる必要がある。
見出語リンク用データベース
[見出語ID]
[索引ID]
これを入れることで、一つの見出語に対して複数の書籍からの索引を関連付けるだけでなく、一つの索引レコードから、複数の見出語をリレーションすることが可能となる。
目録カードの時代で言えば、[アインシュタイン]と描かれている人物典拠カードに、[アインシュタイン,アルバート][アインシュタイン、アルベルト][(アイルベルト・)アインシュタイン] をも見よ と書くところかもしれない。
さて、ここまでは従来の図書館情報学における資料組織論として取り扱える内容である。
まぁ、残念ながら現在の電子化された目録データベースでは、ここまで取り組んでいる事例は、知らない。もしあれば、不勉強な私にぜひ教えていただきたい。
ここからが、次のステップである。
見出語どうしの関連づけ
一つ一つの見出語を「情報」とするならば、その情報を別の情報を持って記述したものを「知識」としよう。するとこういうことを描くことができる。
「見出語A」は「見出語B」の「なんとかである」。
例えば、
「ロボット學天則」は「西村真琴」が「作った」
「西村晃」は「西村真琴」の「息子(である)」ちなみに、息子にはさらに「次男」という属性もつく。
→ 自動的に、「西村真琴」は「西村晃」の「父(である)」
こんな関連づけを、見出語にいっぱいつけていく。そんなデータベース作りを考えている。
僕はこれを『多種類情報資源相互参照システム』として構築する事ができる。
AはBのxxである。という関連づけ。しかもその関連づけには様々な属性を付加する事もできる。
そしてこれは、後に(現在)において、『グラフ Graph 』という名前で呼ばれるようになり、Googleは「ナレッジ・グラフ」という名称を用いているようだ。
グラフとセマンティック
数年前に Google 社が、ナレッジ・グラフ というものを開発した。また、Open Graph というプロトコルもある。
ナレッジグラフ Wikipedia
Open Graph protocol
Wikipediaの解説を見ただけではよくわからないところもあるが、要するに 情報は一人ではいられない。他の情報を関連性を持ちながら存在し、その関連性を結んでいけば、連結した先の知識も答えとして導き出すことができる。
例えば、一冊一冊の小説から、時代と場面と登場人物を関連付けながらグラフをつないでいけば、
文献に見られる、大正時代に、東京御茶ノ水YMCA会館の前を、通った人のリスト(架空人物を含む)が欲しい。
といえば、直接の回答が存在していなくても、結びつきを辿りながら、そんなリストを作り出すことができたりする。
現在、Web技術の方面では、『セマンティックWeb』とか『Linked Data』、『トリプル』とか『SPARQL』と言ったキーワードによる分野で、そんなことが実現出来るWebの記述方法と検索方法が検討されているが、その技術を持って、対象をWebから既存の出版物…特に「図書館の蔵書」を対象にすることで、人類の叡智を結びつけるようなことができるのではないか。「本」というパッケージに囚われている叡智を解放することができるのではないだろうか…などということを考えていたりする。
・・・【追記】
実はこの夏に、SoftBankの人型ロボット(ヒューマノイド)のPepperが、やってきた。彼の(一応少年の設定)プログラミングをしている中で、なるほど!そういう解決方法があるのか。という場面に遭遇した。
このブログで言えば、「見出語」マスターの上位に「コンセプト」マスターを置くと、複数の見出語を一括りの概念で括ることができそうだ。そのあたり、もしかしたら図書館情報学で言うところの『件名表目標』が使えるかもしれない。
Pepperの開発環境である Choreographe における QiChat Script でいうと、上の「アインシュタイン」は、
concept:(einstein)[アインシュタイン Einstein "アルバート アインシュタイン" "アインシュタイン、アルベルト" "(アイルベルト・)アインシュタイン" "Albert Einstein" ]
とすることで、[]の中のどの表記(文字列)が来ても、全て einstein という言葉(変数)に対応します。
というわけで、この膨大な「索引データベース」を構築する/構築し続けることで、日本の人工知能は図書館の蔵書から叡智を得ていくのではないだろうか?]]>
民主主義の学びの場にする指定管理者制度
http://maru3.exblog.jp/20025646/
2014-07-23T09:56:00+09:00
2014-07-23T19:45:23+09:00
2014-07-23T09:56:12+09:00
maruyama_takahiro
日々是電網
指定管理者制度(Wikipedia)
この条文の改正による制度運用に関しては、いわゆる「スキーム」が国からは出されることはありませんでした。この法律改正をうけて、各都道府県および各市町村は、自分たちで制度運用方法を考えなければなりませんでした。その結果、ひとつの法律に基づく制度運用が、設置自治体ごとにバラバラ、同じ自治体でも公の施設ごとにバラバラ…という状況を生み出す結果になってしまい、どのような制度運用が正解なのか…は、結果をみてみないとわからない…という状況が生まれてしまったと思っています。
民間の営利企業が指定される場合、それまでの自治体出資により設立されたいわゆる「第三セクター」、そしてNPO法人などの市民団体…等々。法律上は個人ではなく二人以上の任意団体でも可能ですが、制度導入する事例ごろに、応募資格などが決められこれも自治体ごと/施設ごとに、統一されることはありません。
さて、そんな「指定管理者制度」は、当初より現在にいたるまでいろいろと批判の対象になってきました。ことに「図書館における指定管理者制度の導入」に関しては、その最大の業界団体である日本図書館協会自信が、「図書館への指定管理者制度導入は、なじまない」と公式に声明を発表するに至って降ります。
・公立図書館の指定管理者制度について(日本図書館協会)
私たち、山中湖情報創造館およびその指定管理者であるNPO法人地域資料デジタル化研究会は、制度が施行された翌年の2004年(平成16年)4月の開館当初より指定管理者制度を導入した図書館として、今日まで4回の協定を更新し10年間事業を継続してきました。継続性に難あり!と言われた制度ではありますが今日までこれらたことは、多くの方々に支えられ評価された結果だと自負しております。
前置きが長くなりましたので、いよいよ本題。
実はこの「指定管理者制度」は、公の施設を住民自治による民主主義のあり方を学ぶ絶好の機会であると、私たちは考えています。ただ、そのためには設置自治体側も住民側も乗り越えなければならない課題が多い事は重々承知の上で、こんなモデルを考えています。
行政(パブリックセクター)による公の施設(ここでは「公立図書館」をイメージしながら描いています)の管理運営モデルです。
これに対して、指定管理者制度を導入し、民間の営利企業が指定管理者となった場合は、このようになります。
あえて、オレンジ枠の部分に「意思決定に参加できない」と書きました。
パブリックセクターにおいては、住民は教育委員会にクレーム言う事は可能です。また教育委員の方々を通じて、あるいは都道府県議会/市町村議会の議員を通じて、住民の意見を反映させることは不可能ではありません。
それに対して、民間の営利企業であるプライベートセクターが指定管理者になった場合、プライベートな民間企業の意思決定に対しては、住民の意見は反映されにくいのが実情です。もしも企業が株式を一般公開していれば、株主になって株主総会で質問するなどの関与はできますが、これはなかなかハードルが高いことです。逆にいえばプライベートな営利企業が指定管理者になった場合は、その点に十分注意することはひとつの手法と考えられるでしょう。
プライベートセクターである民間の営利企業が指定管理者になる場合に対して、NPO法人が指定管理者となった場合の図がこちら
あえて、オレンジ枠の部分に「意思決定に参加できる」と書きました。
ご存知のとおり、NPO法人は非営利団体(Non-Profit Organization)です。その活動に興味関心を持っている方ならどなたでも会員になることができます。むしろ正当な理由が無い限り入会を希望する人を拒むことはできません。当然その自治体の住民もNPO法人の会員になり、総会における議決権を有することも、理事に立候補することもできます。営利企業の株主になるよりもはるかにハードルは低く、意思決定に参加することができるのがNPO法人の特徴でもあります。
このモデルから、地元の公の施設の指定管理者がNPO法人になった場合、住民を含め興味関心のある方ならどなたでも会員になり意思決定に参加することができるのです。逆な言い方をすれば、地元の公の施設が指定管理者を募集するのであれば、これこそ住民自治による管理運営ができるぜっこうの機会!と捉えて、地元住民がNPO法人をつくって応募することは可能なのです。
それはまさに、住民自治による民主的な公の施設の管理運営モデル が、指定管理者制度を用いて実現可能になるということなのでは、ないでしょうか。しかも施設や設備などの初期投資や管理運営に必要な費用も指定管理料として支出していたく…など、市民団体が自発的に図書館や学習施設などをつくるのに比べてはるかに大きな規模で、はるかに安定した財源で、それが実現できるのが、この「指定管理者制度」なのだと考えています。
もちろん、NPO法人の経営、意思決定における合意形成の手法、などなどの課題はありますが、これらはじつは「民主主義のためのエクササイズ」にほかありません。
これまでの、行政に「おまかせ」民主主義や「おねだり」民主主義は、管理運営が民間企業になっても同様に「おまかせ&おねだり」になりがちですが、管理運営主体が自分たち自身になればそこに「合意形成」や「意志の反映」などは、《他人事》から《自分たち事》になっていきます。
山中湖でも当初は、そんなイメージで取り組んでいたのですが、僕たちは地元のNPO法人ではなかったこともあり、どうしても住民側からはそれまでの行政に対する姿勢が代わらなかった…ということがあったり、結果として地元の市民団体が分裂解散してしまったこともあり、結果とし私たちのNPO法人が10年間継続することとなりました。
以上のように、指定管理者制度そのものは、市民団体が住民自治により公の施設を管理運営できる制度でもあるのです。これは今までの日本の官僚主導による民主主義のあり方を変えていく契機にすらできるものだと思っています。図書館の業界団体や社会教育関係の集まりの中で「指定管理者制度なじまない/ふさわしくない」という議論が大勢を占めているようですが、これこそまさに合意形成のあり方、住民自治のあり方を考え学ぶための「民主主義の基本を体験学習できるエクササイズ」にできることを、設置自治体側も、住民側も再考する必要があるのではないでしょうか。
諸外国の図書館においても、プライベートセクターである民間営利企業へのアウトソーシングに対しては反対する意見が見受けられますが、上記のような住民自治による公共図書館は、コミュニティ・ライブラリとして成立している事例が少なからずあります。
国が作った制度、地方自治体が運用する制度ではありますが、そこにこそ「住民自治による民主主義モデル」があることを考えていただければ、とてもうれしく思います。
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それは『図書館』ではないの…ほんとに?
http://maru3.exblog.jp/20022404/
2014-07-22T10:35:00+09:00
2014-07-22T10:52:45+09:00
2014-07-22T10:35:57+09:00
maruyama_takahiro
これからの図書館
テーマは、「それは『図書館』ではないの…ほんとに?」
ことの発端は、山中湖情報創造館が、「図書館」ではなく「図書館類似施設」と思われたり、「公共図書館機能」ではなく「公共図書館的機能」を持っているとされたりしたこと。誤解は解消されたので、すでにわだかまりは解消されたのですが、なぜそう捉えられたのか、そう思われてしまったのか。確かに「図書館」という名称を持たない「山中湖情報創造館」ではありますが、公式ではないものの英語表記では、"Yamanakako Public Library for the People's Creativity" としているだけあって、「類似」とか「的」といわれるのは、これまでの10年間の活動を否定されたのでは?!と感情的にもなってしまいました。
でも、どうしてそう思われたのか。
…を考えているなかで、こんな図が描けるんじゃないかなぁ〜というのがこれ。
どうやら、強固で堅牢な、「図書館とはかくあるべし」な枠組みが存在しているように思っています。そこからちょっとでも逸脱すると、四方八方から「それは図書館ではない」「図書館にはなじまない」「図書館はそんな取り組みはしない/させない」…みたいな集中砲火!
実はかつて、私達のNPO法人地域資料デジタル化研究会の小林是綱理事長が、石和町立図書館長だった時代には、ビデオやレーザーディスクなどの映像資料の貸出を日本で最初に始めた際に、おもいっきり批判されたそうです。その後も、現在の北杜市図書館(当時、八ヶ岳大泉金田一春彦記念図書)において、利用者自身がセルフサービスで貸出返却できる自動貸出返却機を導入した際には、貸出はカウンターで人がやるもので機械がやるものではない!と、これまた業界筋から思いっきり批判されたそうです。
昨今では、指定管理者制度などにより民間の営利企業や民間の非営利団体らが図書館の管理運営をするなかで、様々な取り組みが行われていますが、ちょっとでも『図書館の枠組み』から飛び出そうものなら、「それは『図書館』じゃない!『図書館』がやるべきことではない!」といった批判が出てきます。
これまでの図書館の業界の考え方の中に、いつのまには「図書館は成長し進化するものである」という法則を忘れ、図書館はいつの時代もかくあるべし! のような固定観念に縛られた考え方がはびこっており、そこから逸脱しようものなら、なんとか理由をつけて「それは『図書館』じゃない!」と叩かれているのではないでしょうか。
そして、10年前。山中湖情報創造館を最初の指定管理者図書館事例とする際に、そんな批判を回避するために作った条文が、
「図書館法に基づく機能を有する施設とする」
でした。考え方は右下の図です。中心に核となる「図書館機能」を置きながら、公共図書館としてのサービスを提供しつつ、設備的には貸館としての研修室があり、パブリックPCのあるマルチメディアコーナーを備えた複合施設として、また管理運営における創意工夫や取り組みは拡張できるものと…と位置づけました。その結果としての「情報創造館」なのです。これは後に、武蔵野プレイスなどの複合施設も同様のコンセプトを取り入れていると聞いています。
そうなると、これはもう「図書館」とは呼べない施設なのでしょうか?
ここのところが、冒頭の記述の誤解を生じる原因になりました。図書館の枠組みから飛び出しているから「類似施設」、公共図書館サービス以上のことに取り組んでいるから公共図書館「的サービス」…と。
今後、加速するICT環境や電子書籍などの新しい媒体による資料などを、図書館をMOOCsなどの遠隔学習の場にするなどに取り組むとなると、どうしても従来の「図書館の枠組み」から逸脱しなければなりません。そんな時に、ひとつひとつ批判や中傷をうけていたのではたまりませんから、ひとつの考え方、防護措置として、「図書館機能」という核をもちつつ、拡張する社会教育施設…という不思議な形態が生まれました。
でも実はこれ、諸外国から見れば…「それも図書館の範囲じゃないの?」とさも当然に、あっさり扱われます。そう。諸外国の図書館では、「図書館の枠組み」そのものが、弾力性があり拡張自在であり、どこまでいっても「図書館は図書館」なのです。「Public Library は、Public Library」なのです。
11年前に、ジャーナリストの菅谷明子さんが、「未来をつくる図書館」を出版され、話題になりました。帯には「え、これが図書館!」というちょっとセンセーショナルな文字がありましたが、そこまで拡張しても図書館は図書館…というのが、外国の米国の図書館に対する考え方です。
インターネット上でちょっと検索してみれば、図書館にレゴはあるし、世界中の図書館でゲームをする日はあるし、パブリックPCでお仕事をする人、スキャナーやプリンターの利用は当然、視聴覚資料だけでなくオーディオブックやゲームカセットまで貸し出し、さらに近いところでは3Dプリンタを導入して図書館内に「メイカースペース」を作る…といったことまで、すべて「図書館の枠組みの範囲」なのです。しかもそれを、業界団体であるALA(米国図書館協会)が、お墨付きを与え、全国の図書館に普及を促すほど。
まとめれば、
・これまでの日本の図書館には「図書館という堅牢な枠組み」があり、それを逸脱すると叩かれる風潮がる。
・それを回避するために、図書館機能を核とおいた複合施設として展開する手法が生み出された。が、それはもう「図書館とは呼べない」のではないか。
・いや、諸外国の図書館をみれば、図書館の枠組みは弾力性があり、時代の変化に対応しながら拡張している。それでも「図書館は図書館」として成立してる。(成長する有機体である)
という感じ。MITメディアラボ副所長である石井裕先生のいう「出杭力(でるくいりょく)」は、日本では叩かれる対象となっても、グローバルな場にでればそれは拡張のための「押出力(おしだしりょく)」としてはたらく。特に諸外国の図書館においては、そうやって時代に対応することで、図書館の社会的価値、社会的位置づけを強固なものとし、予算の獲得や資金調達、利用者への還元を果たす役割を担っている。
日本の公立図書館を始めとする社会教育施設は、図書館は、博物館は、公民館は「かくあるべし」という強固で堅牢な壁を守る姿勢から、核となる本質的な機能をしっかりと保持しつつ拡張する枠組みへと考え方を変えなければならない。
なぜならば、それぞれの機能を有する施設が拡張するスタイルはとても「特殊事例」になってしまいます。山中湖だから、◯◯市だから…うちではできません。という…できない理由…になりがちです。一方で、枠組みそのものを柔軟に拡張するのがこれからの図書館であり博物館であり公民館であるならば、「一般事例」として全国の社会教育施設が取り入れることもできるし、それぞれの業界団体がお墨付きをあたえ普及させることも可能になります。
少なくとも今後21世紀の図書館像・博物館像・公民館像…社会教育施設像を描くには、そんな転換(外国ではあたりまえだけど)を、業界をあげて取り組まなければならない…と、思ったりもするのです。
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電子書籍の前に、オーディオブックを!
http://maru3.exblog.jp/18695043/
2013-09-29T01:08:48+09:00
2013-09-29T01:06:36+09:00
2013-09-29T01:06:36+09:00
maruyama_takahiro
これからの図書館
・電子書籍で変わる高齢者の読書(NHE NEWS: 2013/9.26)
さて、一方で公共図書館における電子書籍の導入やダウンロード貸出サービスなどがいくつかの図書館で始まっているようだが、利用がいうほど伸びてないらしい。ダウンロード貸出ができる書籍の種類が少ないという理由もあるだろうが、実はそれ以上に深い理由がありそうに思えてならない。そのひとつとして、日本の公共図書館において「オーディオブック」の時代がまだ到来していない…ことなのだ。と、僕は考えている。電子書籍が普及する前にオーディオブックの普及がなければ、電子書籍の導入も貸出も…予想を大きく下回る結果になるであろう。それはすでに米国の図書館の同行から推測することができる。
米国の図書館あるいは書籍出版において、「オーディオブック」は確固たる地位を確立している。
小説や自伝などは、著者自身が5〜6時間かけて朗読しているオーディオブックなどもあるほど、著者や出版社側の力の入れようがハンパではない!これは書店販売でもそのようであるし、公共図書館などを通した貸出においても、オーディオブックは相応の地位を占めている。
米国図書館におけるオーディオブックの歴史は、ざっとこんな感じだ。
・1980年代カセットテープによるオーディオブックの登場
SONY製のWalkmanなどのポータブルプレーヤーの登場で、家庭内だけでなく屋外での利用が生まれた。それまでにも図書館資料としてレコードを扱ってきた図書館がカセットテープを導入し、中でも朗読もののオーディオブックにも力をいれていた。
・カセットテープからオーディオCDへの移行はあったものの、据置型プレーヤーや携帯型プレーヤの登場が一定の利用を担ってきていた。
・そんな中で、デジタル技術の進歩により音楽CDをパソコンに取り込み再生するスタイルが登場。一時期などは、その音楽用デジタルフォーマットである mp3(エムピースリー)は著作権侵害の代名詞になるほど…の勢いであった。
・mp3の登場により、1枚のメモリーカードに1冊分のオーディオブックを保存したメディアが登場。これは playaway社のbookpacksなどが有名 ( http://library.playaway.com/bookpack )。図書館ではこれらを書架に排架し、他の本と同様に貸出サービスを行っていた。
・その後、Apple社のiPod (現 iPod Classic)の登場により、1つの携帯プレーヤに何冊分ものmp3オーディオブックを取り入れることができるようになってきた。
・ほぼ時をおなじくして、それまでフロッピーディスクやCD-ROMによりデジタルメディアを販売していたOverDrive社が、インターネット上でのダウンロード提供をはじめる。これが図書館向けに大成功となる。2013年の現在でこそ、図書館向け電子書籍のダウンロードサービスといえばOverDrive社の名前は有名だが、当初はMP3によるオーディオブックが主力サービスだったのだ(当初からeBookもあったようだが、本格的普及は電子書籍端末であるSONY Readerの登場を待たなければならなかった)。
ここから、デジタルコンテンツのダウンロード貸出のシステムを開発し、サービスを提供していた OverDrive社は、その後音楽や映像などのデジタルコンテンツのダウンロードをはじる。そして2006年にSONYによる電子書籍端末SONY Readerの登場にあわせて、OverDrive社の図書館における電子書籍のダウンロード貸出サービスが本格的に始まるのである。※ちなみに Amazon kindleは2007年に発売される。
当初、SONY Reader の普及を進めるため、SONY Readerのサイトから、全国の電子書籍ダウンロード貸出ができる図書館の検索機能があった。お近くの図書館でこれだけの電子書籍がダウンロードして読めますよ(なのでSONY Readerをお買い求め下さい…と)。そしてその電子書籍のダウンロード貸出サイトが、まさに OverDrive社がほぼ独占的に担っていたのです。
単館での契約もありましたが、小さな図書館などでは、County(郡)の図書館協会などで一括契約し、小さな図書館も参加できるスタイルで普及していきます。
単館契約事例: San Francisco Public LibraryのOverDriveページ
カウンティ契約事例: Wisonsin's Digital Library
おおざっぱな流れで言えば、そんな感じです。まずは「オーディオブック」の普及があり、そのダウンロードシステムに乗っかるカタチで「電子書籍 eBook」のダウンロード貸出が始まったのです。
これに比べ、日本の図書館では「オーディオブック」の普及すらままならない状態のままで、「電子書籍」のダウンロード貸出をはじめたところで、普及するわけが無い!…というのが、僕の見立てです。
ということで、もしも日本国内における図書館での電子書籍貸出サービスを推進普及させたいのであれば、まずはその下地づくりのためにも「オーディオブック」の普及推進を計らなければならない。ということで…僕はいまオーディオブックの図書館での推進にむけて注目している会社がこちら。
・株式会社オトバンク
図書館向けのサービスはありませんが、こうしたオーディオブック提供会社の存在こそが、実は日本の公共図書館いおける電子化/電子書籍の普及に大きな鍵を握っていたりするのです。
図書館関係者のみなさんなら、まずは自館のオーディオブックの所有数やタイトル/内容などをチェックし、購入できるオーディオブックはできる限り購入してみる…というところから、はじめてはどうでしょうか。
※ちなみに…OverDrive社と提携している国内企業の メディアドゥ社の今後の動向は、注目していなければなりません。というのも、OcerDrive社の図書館向けページはすでに[日本語化]が完了しており、あとは日本語の電子書籍コンテンツが扱われるようになれば、すぐにでも日本国内でのサービスが開始できるところまで来ています。どのようなサービス内容/契約内容になるかは気になるところですが、いよいよ米国図書館シェアNo.1のOverDrive社が日本の図書館界に乗り込んでくるのも…時間の問題かもしれません。
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21世紀型公共図書館を考える…いや、ポチッと備える。
http://maru3.exblog.jp/15639522/
2012-06-25T23:40:16+09:00
2012-06-25T23:40:11+09:00
2012-06-25T23:40:11+09:00
maruyama_takahiro
これからの図書館
http://www.legoeducation.jp/conference/
一言「行って良かった〜!」
LEGO社主催のカンファレンスでしたので、まぁLEGOのオンパレード。まったくの初心者には、いきなりなじめるわけではない…という意味では、ちょっと気後れしたところもありましたが、予定したワークショップに参加するなり、いきなり脳みそ全開!な感じで、よく遊び、よく学ぶことができました。
そこで、気になったのは
『21世紀型スキル 考える力を伸ばす!』という言葉。そこから導き出される10の項目
・批判的思考力(批評精神を持って考える力)
・問題解決能力
・コミュニケーション力
・コラボレーションの能力
・自律的に学習する力
・ICT(情報通信テクノロジー)を確実に扱うことのできる能力・スキル
・グローバルな認識と社会市民としての意識
・金融・経済に対する教養
・数学、科学、高額、言語や芸術といった分野への理解を深めること
・創造性
とまぁ、実にたくさん!の項目がありますね。
このお話しを伺っている最中から、僕には米国学校司書協会AASLが掲げている「21世紀の学習者のための標準」のことがきになっていました。
AASL Standards for the 21st-Century Learner
http://www.ala.org/aasl/guidelinesandstandards/learningstandards/standards
ここには、たくさん掲げられたスタンダードがあるのですが、それぞれは4つの言葉に集約されています。
Think : 考える
Create: 創造する
Share: 分かち合う
Grow: 成長へ
この英文の翻訳は、以下の図書に掲載されているので、お近くの図書館でご確認くださいませ。
「21世紀を生きる学習者のための活動基準(シリーズ 学習者のエンパワーメント 第1巻)」
http://www.j-sla.or.jp/books/cate7/cate7-000584.html
いち早く日本の全国学校図書館協議会の手により訳書が出版されております。
さて… LEGO Education(シーモア・パパート氏の提唱するコンストラクショニズムにもとづいた教育方針)も、AASLのスタンダードも、どちらも『学校教育』の現場でのものなのです。
それを、公共図書館向けにちょいとばかりアレンジしながら、タイトルにも示した『21世紀型公共図書館の姿』を考え、できるところからでも実践していきたい。それが、いまの大きな目標になってきています。
まだまだ、ぜんぜんよくわからないところが多いので、まずは先進事例である図書館の活動などを参考にしながら、「図書館でゲームをする日」をやってみたり、断裁機にドキュメントスキャナを入れてみたり、匿名の方からAmazon Kindleをいただいたり、iPadを買ってみたり、A1サイズの大判プリンタとA1サイズのイメージスキャナを入れてみたり、ハンモックをつくるしてみたり、「レゴの日」だの「フィットネス」だの、考えられまた実施できる範囲でのことには、果敢に(?)チャレンジしてみたいなぁ〜と、思っていたりするのです。
館長のこの暴走には、まだ日本では誰も教えてくれない(くれそうもない)、21世紀型公共図書館について、あれやこれや考えて取り組んでいるわけなんですね。
1961年生まれの僕は今年で51。子どもたちも高校生やら中学生やら。彼女らの将来に対しても責任があるわけですが、どうも子どもたちに明るい未来を残すことは、かなり難しい状況にあると、すなおもそう思っています。今の大人たちの力では解決できない課題を、次の世代、またその次の世代に解決できないまま受け継がせてしまうことは、あきらかなんです。
日本の人口推移においても、30年のうちに1億人を下回り、5千万人になり、3千万人、2千万人とこの先100年ほどで、日本の人口は半減どころか、1/5を下回るという予測もあるくらい。経済規模も縮小、高齢者介護などの医療費負担、人手の入らない廃屋や廃墟のような建造物、限界集落どころか、限界市町村、限界都道府県…かろうじて道州制で生き残ったとしても、後を継ぐための日本人は一気に縮小していきます。
逆に、世界規模の人口は現在の70億人から、80億、90億…そして、100億人を突破する日がくることも予測されています。今後、大規模な自然災害や、世界中が巻き込まれる戦争や紛争が起きないともいいきれません。
そんな時代を生きる…生き抜かなければならない子どもたちの世代、孫たちの世代に対して、いまの大人ができそうなことといえば、彼ら彼女らに「答え」を示す事ではないし、もちろん「正解」などを今の大人たちが持っている訳も無い。せいぜいできることは、困ったとこに解決できる力を今のうちからトレーニングをつませてあげること…くらいなのです。
そう考えると、僕ら大人たちは、子どもたちに「正解のある問題を出して要領よく解答できるスキル」を身につけさせることがよいのか、それとも「答えに至る無数の考え方があることを学び、そこからよりよい考え方を選択できるスキル」を身につけてもらうことがよいのか…明白なんじゃないかな。…と。
LEGO Education のワークショップの中で、こういう問題がありました。
2+2=
普通の数学で考えれば、正解は4しかありません。今の子どもたちの学習のありかたは、多少これより複雑な設問であっても、「正解」にいかに短時間で要領よくたどりつけるか。答案用紙に書けるか。というスキルをみにつけるような学習方法が多いのです。これに対して
4=
を考える。四則演算でも良い、平方根でも、さらに複雑な方程式でもいい。4=になる考え方は無数にあります。インストラクターの方はこうも行っていました。「犬の足の数」「お父さんとおかあさんとぼくと妹で4人」とか。
そんな思考力、問題解決能力…いわゆる『21世紀を生き抜くためのスキル』
学校教育においても、大学受験という大目標があるので、そう簡単に正解のあるテストを解答するスキル…から変更することは難しいのが現状です。だからこそ、学校外にある公共図書館が、ちょっとだけ…ほんのちょっとだけでも、そういう21世紀型スキルを体験できる場になることは、必要なのではないか…なぁ、って思っているわけなのです。
これまでにも、「市民の図書館」「図書館の望ましい基準」「2005年の図書館像」「これからの図書館」等々のビジョンがありましたが、もはや高度経済成長の時代でもなく、よい大学を出たからといってよい就職先があるわけでもなく、就職できないから大学院へ…という時間が許される時代もそう長くは続かないでしょう。また運良くよい就職先に巡り会えても数ヶ月で退職する人たちもいるし、あるいはその大企業がいつどんな状況になるかわかりません。21世紀は、少なくとも21世紀の日本は、戦後から高度経済成長をへて、途中石油ショックはあったものの、バブル崩壊まで一気に成長した経済が、今度も続く世の中ではないのです。そういう時代に相応しい図書館像から、これからの21世紀に求められる図書館の姿に変えていく必要があると、考えているのです。
どこまでできるか、わかりませんが… そんな「21世紀型公共図書館」を求めて、もうしばらくはこの仕事に取り組みたいと思っていたりするのです。
(長文だなぁ〜)]]>
STORIEMIX(ストーリミックス)
http://maru3.exblog.jp/15305756/
2012-05-15T01:03:44+09:00
2012-05-15T01:03:43+09:00
2012-05-15T01:03:43+09:00
maruyama_takahiro
情報デザイン
先日、山中湖の友人を介して、すっごく聡明な方と出会った。
まぁ、たまたま僕がその友人に新しいイベントについて相談したい事があってふらっとでかけたのだが、たまたま彼を取材したいという方々がいらっしゃって…まぁ、おじゃまむしを覚悟で居させていただいた。
すごい、今の若者はほんとにすごい。そんなことを感じた夜だった。
さて、本題。
友人とその彼は、アーティストでアートシーンでも活躍していた時期があって、いわゆるDJとかインスタレーションとか、そんな表現をしている話を聞いていた。そんな話題のなかで、ふと「図書館」とか「本」とか「電子書籍」とか…という話になり、何か図書館という場を使ってイベントができないかなぁ…みたいな話題で盛り上がった。で、このイベントプログラムはかなりおもしろくなりそうで、もう少し現実味を帯びてきたら、山中湖情報創造館という場をつかって実現したいなぁ…と思っているので、そのネタはまた後日あらためて。
今回書きたかったのは、題名にもある「STORIEMIX(ストーリミックス)」という言葉を思いついたから。
音楽シーンには、表現方法のひとつに、RIMIX(リミックス)というものがある。
すでに出来上がった音楽を、ミキシングし直し(つまり混ぜ合わせて)、新しい音楽を作り出す手法だ。まぁ書籍の世界ではそんなことを言い出せば、やれ著作権だ、やれ同一性保持だ…みたいな話が出てくるのだろうが、まぁひとつここは脳内企画演習とおもってください。
最初は、ブックリストあるいはカーリルのレシピみたいな感じで、「本を組み合わせて何かを表現できないか」というところからスタート。でもそれは実にたいへんで、それぞれの本を読破しなければならない。そういう読書課題もよいのだろうが、ここはもうちょっと楽しみでいきたい。
そこでふと、音楽のRIMIXに加え、オムニバス映画の手法を思いついた。
オムニバス映画は、複数のストーリーが断片的に繋ぎ合わされて一本の映画になっている。
例えば、
ストーリA、ストーリーB、ストーリーCがあったとして、映画的な編集では
A1-B1-C1-A2-B2-C2-A3-B3-C3-AB4(ABの物語が合流)-C4 -ABC5(ABCの物語が合流)
みたいな感じ。これを「本」でできないだろうか。あるいは「物語」でできないだろうか。と、そんなことを考えている。
ほんとに例えばだが、「雪国」のとある章の次に、「蜘蛛の糸」のとある章をつなげ、そのつぎに「夢十話」のとある一節をつなぎあわせ…、その繋ぎ方の中で、新しい価値(おもしろみ)を見つけられないだろうか…と。最初はBOOKRIMIX(ブックリミックス)と考えたんだけど、実はもっと「物語」に注目して、STORY + RIMIX =STORIEMIX (ストーリミックス)という考え方になってきたわけです。
さすがにこれを印刷書籍で実現するには、とっても難しい。自炊じゃないが本そのものを解体し、再構築しなければならない。
そこで「電子書籍」の出番。電子化された書籍…というよりも、電子化された物語の、そこかしこを切貼りしながら(RIMIXしながら)、新しい感性…そこから感じとって欲しい表現を作り出す。
むしろ、〈それができなきゃ電子書籍とは言えないね!〉みたいなことまで言っちゃったりして。
…と、ここまで書いていて…実は…
松岡正剛氏の「千夜千冊」って、そういう構造になってないかい? という思いも出てきたし、引用ということで考えれば、そもそも学術論文の書き方って、他人の論文を使いながら自分の論考を表現する…ということは、これもひとつのRIMIX(?)なんて再定義することもできちゃうのかなぁ? そう考えると、いわゆる学術論文って「Knownledge RIMIX」って言えないかなぁ?
なんてね。
そういうわけで、ここではひとまず、こんな言葉を世に出してみたい。
電子書籍が本物になるために…
STORIEMIX (ストーリミックス)
そんなコンセプトって、どう?
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日本の人口推移を知るインフォグラフィックス
http://maru3.exblog.jp/15088184/
2012-04-20T00:49:00+09:00
2012-04-20T00:51:59+09:00
2012-04-20T00:49:41+09:00
maruyama_takahiro
情報デザイン
http://www.bowlgraphics.net/tsutagra/03/
1950年から10年刻みで2050年までの日本における年齢別人口の推移です。
これはいま、僕の思考の基礎になっているインフォグラフィックスなのです。
2050年はそう遠い未来ではなく、僕の娘たちが今の僕の年齢になる時代。僕は生きているか死んでいるか…まぁ、そんなあたり。
日本はこれから急速に[縮小(シュリンク)]していきます。
戦後の団塊の世代が生まれ、大人になるにつれ、学生運動を起こしたり、社会の価値観を変えていったように、これからは[縮小する日本]が、この国の価値観の変化にとても重要な役割を果たすのではないか…と、思っているわけです。
一方で、地球上の人類は70億人を超え、さらに増え続けるでしょうが、残念ながら日本は…日本民族は、このまま減少の一途をたどる運命にありそうです。
僕はいま、公共図書館という場所で働いているのですが、こうした[情報]や[知識]それに基づく[物語]を、きちんと利用者のみなさんに、提供できているのだろうか? …と、本当に不安でしかたがありません。このインフォグラフィックスも、すでに様々なカタチで統計データとして公開され提供されているにも関わらず、この動くグラフを見るまでは、僕自身もこんなに深刻な課題であることを把握できませんでした。
図書館は「聞かれなければ答えない」という受け身の姿勢が基本ではあるのですが…、どうやら、そうも言っていられない時代になってしまったようです。
地球温暖化、自然災害、放射能汚染…それぞれ重要な社会的課題ではありますが、どれか単独で考えるよりも、複合/マルチで考える必要がある。そういう素養を身につけることができる場所として、やはり「図書館」を定義し直さなければならない…と、思い始めているのです。
シュリンキング・ニッポン―縮小する都市の未来戦略大野 秀敏 / 鹿島出版会
身近なダイアグラム―User‐Friendly Diagrams魅力的で親しみやすいグラフ・地図・チャート・図説・表組を特集パイインターナショナル
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地域ごとに「図書館支援基金」を!
http://maru3.exblog.jp/14466189/
2012-01-19T23:49:27+09:00
2012-01-19T23:49:28+09:00
2012-01-19T23:49:28+09:00
maruyama_takahiro
これからの図書館
図書館はだれのものか―豊かなアメリカの図書館を訪ねて (中部大学ブックシリーズ)松林 正己 / 中部大学
ひさびさのブログです。最近twitterやfacebookばかり…。
さて、すでに9年前に出版された菅谷明子氏の「未来をつくる図書館」。この本のインパクトがいまでもある。出版されて9年、取材等を考えれば10年以上前のニューヨーク公共図書館のあり様は、いまでも日本の図書館業界で働く方々や図書館を利用されている方々に、多くの衝撃を与え続けている。
なぜか?
それはこの9年もの間においても、日本の図書館がニューヨーク公共図書館の様々な図書館サービスを[普通の図書館のサービス]とは捉えず、業界のほとんどの方は「日本の図書館は日本の図書館、米国の図書館は米国の図書館です。よく「〜では」を使われる先生方が講演で引用されますが…。」という。簡単にいえば、この10年経ったいまでも日本の図書館は様変わりすることは、ほとんどなかったのだ。
さらに、それはなぜか?
一言で言えば、「図書館業界の危機感」に対する認識が、まだ十分ではない…からだ。直営ならば人件費も図書館の予算もほぼ100%が公費(税金支出)だ。減らされ続けていても図書館が自ら資金調達をする事例は、ほとんどない。また、公費支出の削減とサービスの向上をねらった指定管理者制度の導入はこの2003年の施行以来,増え続けているのだが…これもまた図書館という施設のなせるわざなのか、指定管理料のほぼ100%が公費支出である。さらに悪い事に、民間団体が指定管理者になっているにも関わらず、自主事業による収入を認めていない事例も見受けられる…まったくもって制度に対する誤解も甚だしいのだが、現状そのような協定で営利企業/非営利団体を問わず図書館における資金調達の未知を わざわざ塞いだ 制度導入がまかり通っている。
菅谷明子氏の「未来をつくる図書館」を読み、図書館を変えていこうとする取り組みをしようとしても、そうした図書館財政状況では、なかなか進展しない…というのも、無理からぬことなのだ。
そして実は、もう一冊の「図書館はだれのものか(正)」には、「未来をつくる図書館」をある意味で補完する内容になっている。なぜ米国の公共図書館は、そのような取り組みができるのか。なぜインターネット時代にふさわしい図書館サービスを提供することが可能なのか。「未来を〜」が利用者から見たサービスのあり方を伝えているのなら、「図書館はだれの〜」はその舞台裏と舞台裏を支えている仕組みを書いている。
中でも注目すべきなのは、それぞれの公共図書館には「図書館支援財団」があり、税金のよる運営費の不足を補うシステムがあったり、「図書館友の会」が図書館ブランドを商品化し販売し、そのブランド使用料(ライセンス料)を図書館に支払うというモデルで、財政面をバックアップしているというのだ。日本でも図書館友の会は、廃棄本を無料でゆずりうけ、バザーを行い、その売上げを図書館に寄附する…というモデルもあるにはあるのだが決して十分な金額ではない。
というわけで…
図書館ごとに…というわけにはいかないだろうが、せめて都道府県単位で、あるいは市町村単位での、市民による「図書館支援機構」づくりが必要なのではないだろうか。それは財団なのか社団なのか、あるいはNPOなのか…それとも基金なのか。そのスタイルはそれぞれの単位で決めればよいだろうが、公費だけでは縮小する一方の図書館を、市民が支えてゆくモデルを今のうちに作っておかないと、本当にダメになってしまうのは時間の問題だと思う。
スポーツチームのモデルを図書館に置き換えて考えてもいい。
コートでプレイする選手だけがチームではない。監督、マネージャー、そのバックヤードで広報や事務処理やファンサービスやそれこそ実に様々なスタッフがいて、はじめて一人の選手あるいは出場チームが試合で全力をだして戦うことができる。もちろんスタンドからのサポータの応援もある。サポータ以外の観客もいる。
図書館でプレイする職員だけではなく、そのバックヤードにどれだけの後ろ支えを持つ事ができるか。それがとても大切になり、公務員による直営では難しいモデルも、指定管理者なら可能ではないか。あるいは本当に、ニューヨーク公共図書館のように財団法人による「私立公共図書館」のモデルが実現するのではないか…と、かなり真剣に考えている。
当然ながら、こんなことをは現在の日本の図書館情報学(特に図書館経営論)では、まったく教えてはくれない。いつまでたっても公共図書館は100%税金で運営され、館長はその歳入(税金)からできるだけたくさんの予算を取れるかが腕のみせどころ…みたいな教育ばかりだ。そろそろ視点をかえて、NPOなどの非営利団体の経営モデルを公共図書館にも取り入れるべきだと思うし、少なくともNPOによる指定管理者図書館は、そのあたりのことをかなり強く意識して図書館経営に取り組んでいる。
というわけで、菅谷明子氏の「未来をつくる図書館」と松林正己氏の「図書館はだれのものか(正)」はぜひ、セットで読んでいただきたい。
※松林正己氏の「図書館はだれのものか(続)」では、働くスタッフの専門性について言及している。さらに興味を持った方は、続編も読んでみるとよいだろう。
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図書館とメロディロードと命ということ。
http://maru3.exblog.jp/14074852/
2011-11-27T01:31:53+09:00
2011-11-27T01:31:51+09:00
2011-11-27T01:31:51+09:00
maruyama_takahiro
ひとりごと...
たまに、ブログなどを書こうとすると…こういうことになる。
両親が他界し、自分も五十路を越えて、何やら「寿命」とか「命」とか「魂」などを考えたりする。人はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか。人類の歴史と同じくらい様々な宗教がそれを語り、偉人たちが悟りを開き、教祖となり…いまや世界はスピリチュアルであふれている。
僕自身も、宗教やスピリチュアルな不思議話は嫌いではないのだが、どうも最近あの「スピリチュアル用語」が耳につくようになってしまった。例えば「前世」や「過去世」とか、「あの世」とか「ハイアーセルフ」だとか…そんな言葉を使わなくても説明できるだろう時代になってきても、相変わらずの専門用語。ちなみに…ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)さんは「一般庶民に分かる言葉で説明しなさい」との教えを説かれたにも関わらず、現代語訳もしない呪文のようなお経をあげている今日を、どんな気持ちでいるのやら…。
さて…そんななかで、僕は図書館に務めている。
ここにいるととても不思議な感覚になる。
本棚に並んでいる本は、それこそ宇宙の始まった137億年のビックバンの話しから、46億年前に地球が誕生し、人類が生まれ様々な歴史をたどり、今日からさらに未来への空想や創造をふくらませた物語までが、ひとつの建物の中のひとつのフロアに収まっているのだ。ここには始まりもあり終わりもある。いうなればα(アルファ)でありω(オメガ)なのである。
人はそのときどきに、書棚から本を出し、ページをめくる。すると突然その本の中の物語が再生され、私たちはしばらくの時間、その本の中の物語を生きていたりする。
本の取り出し方は順不同。ランダムアクセス、過去から未来、未来から過去。日本から他の国のはて、地球から宇宙の星々、そしてまた海底や地底へ…。それほどまでに自由でありなんら制約をうけずに私たちは物語の世界を行き来することができる。同じ本を繰り替えし読むこともある。何度も何度も。また、似たような物語を続けて読む事もある。
例えばそれは、魂とか命とか生きるといことの本質に近いものではないだろうか?
そう。今生きている私自身は、私自身という本を開きその物語を読んでいるようなもの。最後のページを閉じたときが、人生の終わり=すなわち死である。が,そこで終わりではない。「あぁ、おもしろかった。次はどれを読もうかな」なのではないか。そんな気がしているのだ。
坂本龍馬の物語も、ナポレオンの物語も、最初から最後まではそれぞれ本になっていて、それを「読む」ことで、ほんのひととき、ほんのつかの間のような時間を私たちは「生きている」のではないか。
また…図書館とは違うがちょっとばかりおもしろい体験もある。
富士吉田から富士山5合目に向かう「富士スバルライン」という有料道路がある(途中までは無料)。ここにメロディーロードがる。道路に狭い間隔で細い溝がつけられているとタイヤが音をたてる現象をご存知だろうか? これは溝の幅を変えることで[音程]をつくることができる。この富士スバルラインには、上りにも下りにもこの仕組みでタイヤがメロディを奏でる箇所があるのだ。しかも曲は「富士山」。この道路には数100mの間に曲の始まりと終わりがある。自分の走行と同時に曲が再生される。区間が終わると曲も終わる。まぁ、これだけのことなのだが、ふと…後続車が気になった。私が奏でた曲と同じ曲を少し違うタイミングで再生しながら後ろを走っているのだ。もちろん僕の前を走っている車も僕よりも先の部分を奏でているに違いない。
これは本に例えれば、一冊の本を複数の人間が同時に同じページだけでなく違うページを読んでいることと同じである。本ならば同時に何千部、何万部が印刷され市場に出回るので、同じ本を同時にあるいは違うタイミングで、同じページあるいは違うページを、複数の人たちが[読む=再生]しているのである。
一冊の本に、1枚のCDに、1枚のDVDに、1本の道(?)に。 過去も現在も未来も記録されており、そこを[私の視点]がピックアップすることで物語が再生され、私たちはほんのつかの間その物語世界に身を委ねている。これは「生きている」ことに似てはいないだろうか?
そして…よ〜くみてください、ね。
この言葉を。「再び」「生きる」と書いて「再生(=Play)」なんですよ。
普通の言葉でしょう。スピリチュアルな言葉を使わなくても、語れることがあるのです。
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青ペンギンの「ドネイトくん」登場!
http://maru3.exblog.jp/14012998/
2011-11-16T02:20:00+09:00
2011-11-16T02:21:09+09:00
2011-11-16T02:20:08+09:00
maruyama_takahiro
山中湖情報創造館
山中湖情報創造館の新しいマスコット
青ペンギンの「ドネイトくん」です。
さっそく彼(?)は、ご来館のみなさんに愛嬌を振りまいております。
ぜひ、ご来館になって、クチバシをさわってみてください!
※ちなみに…なにげにオリジナルカップとオリジナルトレイが写っていたりします※]]>
図書館関係者におススメの2冊! partⅡ
http://maru3.exblog.jp/13933275/
2011-11-03T10:41:58+09:00
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2011-11-03T10:41:58+09:00
maruyama_takahiro
おススメ
11ARTSナカサ&パートナーズ / 復刊ドットコム
公共図書館ではない。地域社会でみれば図書館のコンペチター(競合相手)でもある(むしろ先方からみれば民業圧迫と見られているかも)。
ニーズを把握し、自らのシーズをつくり、サービスを提供することに関しては、民間の知恵に学ぶことはたくさんある。この2冊から「その次の図書館像」を描き出すことが求められる…かもね!
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図書館関係者におススメの2冊!
http://maru3.exblog.jp/13918156/
2011-11-01T00:36:00+09:00
2011-11-01T00:37:44+09:00
2011-11-01T00:36:07+09:00
maruyama_takahiro
おススメ
今、おススメなのがこの2冊。
コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる山崎 亮 / 学芸出版社
日本の田舎は宝の山―農村起業のすすめ曽根原 久司 / 日本経済新聞出版社
たまには、図書館から離れた気持ちで読むのもよいし、山崎氏の著書はそのまんま「図書館で人がつながる仕組みはつくれるのか?」と読んでみたり、曽根原氏の著書は「日本の図書館は宝の山」と読んでみてもいい。
異業種・異分野にふとしたヒントが隠されている…かもね!
(ま、ひとつダマされたと思って…)]]>
今の図書館は戦争を止めることができるか!
http://maru3.exblog.jp/13881107/
2011-10-26T00:09:00+09:00
2011-10-30T16:52:07+09:00
2011-10-26T00:09:00+09:00
maruyama_takahiro
これからの図書館
貸出至上主義への批判も、指定管理者をはじめとする民間委託への批判も…それらのことよりも、実はもっと重要な事がある。それに気がついてしまうと、僕はもう後戻りはできない。そんな気さえする。
あの戦争の後、それまでの改正図書館令を改め、戦後の日本国憲法のもとで教育基本法が生まれ、社会教育法や図書館法が生まれた。また戦前から続く日本図書館協会は「図書館の自由に関する宣言」を発表し、その前文に
わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
としるし、図書館が「思想善導」の機関として戦争に加担したことへの反省にたった宣言を掲げた。
そして戦後60余年の月日が流れているが、この国をとりまく状況は実はかなりキナ臭く、周辺諸国が跳梁跋扈する時代になってしまったのではないか…と危惧する中で、僕は自分にこう問い始めている
「図書館は、その図書館サービスや図書館活動を通じ、この国が戦火に巻き込まれることを積極的に《回避》するための何らかの活動を行なうことができるだろうか?」
と。たぶんこのまま事態が推移すれば、積極的な加担はしないまでも、むしろあえて何もしないという状況になりはしないか。
多少オカルトめいているかもしれないが、僕の中で一つの考え方が生まれたとき、インターネット上にも同様の考え方を持っている人たちが実はたくさんいることがわかってきた。
例えばこうだ。
関東大震災:東日本大震災
金解禁 :環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)
その他周辺諸国の領土問題に対するちょっかい
某国の東京急行ならぬ日本周遊飛行(しかも部品を落としたF15は飛行禁止?!状態)
米軍と自衛隊の合同訓練(空中給油にFTC…)
そして最近のサイバー攻撃!
TPP締結は不可避かもしれない。が、その後に世界規模の経済的危機が訪れることも一部では予測されている。
子どもたちの世代、さらに孫たちの世代ですら、そんな世界になることが想像に難しく無い。
だからこそ、人は先人たちの知恵から学び、多くの失敗から学び、同じ過ちを繰り返す事のない未来を築かなければならない。
そのためのひとつの拠点が「図書館」なのだ。
僕はいま、そんな想いを…持ち始めているのだが… 考え過ぎだろうか?
平和のための「戦争学」松村 劭 / PHP研究所
それでも、日本人は「戦争」を選んだ加藤陽子 / 朝日出版社
今、僕は…こっそりと、波風をたてない程度に、ひそやかに、沈々・森々とその準備に取りかかろう。弱い五十路の身である。残された時間はわずかかもしれない。
だが、勘違いめさるな。
夏休みの◯◯図書だといって悲劇だけを読んでみたところで、将来の厄災を回避することはできない。私たちは歴史から学べる力を持っているはずだ。図書館にはその経験が文字となり本となって蓄積されている。それを活かすも殺すも私たち図書館員次第なのだ。
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