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山中湖情報創造館Blog 開設しました。

報湖祭 (ほうこさい)。山中湖の納涼花火大会は、なかなか見ごたえがありました。湖の周り4箇所(山中、旭日丘、平野、長池)で打ち上げられ、1つの場所から、遠くの3つの花火も見え、美しさは絶品ですね。この日は夜も遊覧船が就航。次回は湖の上から、花火を見たいなぁ、と思いました。
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写真、“ぶれぶれ”です。ちなみに遊覧船は、白鳥の形をしたオデット号です。
# by maruyama_takahiro | 2004-08-01 22:28 | 山中湖情報創造館

DBiE(データベース イン エデュケーション)の提案

 NIE(ニュースペーパー in エデュケーション)「教育に新聞を」という学習手法がある。学校教育に新聞を取り入れ、“今”の社会を学習するものである。新聞をあたかも教科書のように捉えるのではなく、社会の「ひとつのモノの見方」として新聞をとらえ、いわば新聞というメディアをクリティカル(批評的)に考える「メディアリテラシー教材」としてなら、それもよいと思う。まちがっても、新聞に書いてあるから、活字になっているからそれは「すべてが正しい」などと、とらえてはならないはずである....のだが....。
さて、もう一方にITをとりまく教育活動のひとつとして、様々な試みが行われているが、ひとむかし(いや、ふたむかしくらいかな)のCAI(コンピュータ•アシステッド•インストラクション)的なものでよしとしている例も、まだ多く見受けられる。それが悪いというのではなく、それも全体の中のひとつであり、それがすべてではないということなのだ。
 そこで、丸山@山中湖としては、学習にITを活用する手法として、また調べもの学習や総合学習などとITとの実践として、DBiE データベース•イン•エデュケーション(教育にデータベースを)を提案したい。それは百科事典や図鑑などの書籍も、活用の対象とします。学習あるいは問題解決の手段としてデータベースを使うことを学習する機会をつくるのと同時に、自らもデータベースをつくる作業を通じて、情報に対するスキルアップを図ることができるのではないかと、考えています。今後、有料/無料を問わず様々なオンラインデータベースのサービスが広まり始めているので、ぜひこの機会に、DBiE (DataBase in Education データベース イン エデュケーション)を提案します。
 ちなみに....山中湖情報創造館では、ジャパンナレッジが使えます。
# by maruyama_takahiro | 2004-07-28 11:26 | 日々是電網

■そうか!情報って「情況報告」だったんだ。その6

−情報は力なり−

 私は現在、NPO法人の職員として、山中湖情報創造館という公設民営の公共図書館で働いている。指定管理者制度により公共施設も民間が運営できるようになり、図書館における全面的な運営は全国でも初めて事例らしく、視察団体も数多い。
 そんな視察団体の中でも「我が町村でもこのような図書館を」という方や、「指定管理者制度を導入してNPOに運営をまかせれば、すべてうまくいく」的な考え方を持たれている方も少なくない。しかし、ちょっと待って欲しい。
 カタチから入るまえに、「なぜ図書館が必要なのか」の議論がなされていないように感じるのである。
 先日も、地元の小学生たちの社会科見学で、ちょっとした質問時間が設けられた。「お休みはいつですか」「働いている人は何人ですか」という質問の中に、こんな質問があった「図書館はどうしてあるんですか」と。

 先に、司令官の話を書いた。戦場から時々刻々と寄せられる「情報=情況報告」と、自分の持てる知識や経験を照らし合わせて、情況を認識し、判断し、作戦を立案し、実行命令を出し、行動に移すと。そして責任者はこの司令官であり、命令を実行する現場の兵士は、その命令を忠実に実行するだけである、と。
 これは軍隊の例ではあるが、昨今のいわゆる『自己責任社会』においては、まさに個人一人ひとりの中で、同様のことが行われているのである。一人の個人であっても、必要な情況報告を入手し、判断し、自分自身に命令を下し、実行し、そして責任もまた自らが背負う。一見あたりまえのようであるが、ここ数年この『自己責任』が大きなうねりとなって、私たちの暮らしに影響を与えている。
 例えば、現在の医療機関では、インフォームドコンセント(納得医療)があるが、これは従来医者が追っていた責任を、患者側が責任を負うための方法論なのである。簡単にいえば、医者が「切ってもよいか?」と訪ね、患者に判断をゆだねる。「切ってもよい」といえば、切った結果の責任は、医者ではなく、患者自身にある。まさに『自己責任』である。この判断を委ねられた患者は、何をもとに、情況認識/情況判断し、実行命令を出せるのであろうか。必要な情報=情況報告が十分に得られぬままに、決断を迫られることほど、恐ろしい事は無い。
 自動車を購入するときにも、メーカーのカタログやメーカーや販売店での試乗だけで判断してはいないだろうか?メーカーのカタログは客観的な情報というよりも広告と思った方がよいし、販売店では客である私たちを「その気にさせる雰囲気」を作っている場である。客観的な情報は、実は何一つないのである。利害関係のない第三者による商品テスト情報は、米国などの『自己責任先進国』では、かなりあたりまえの情報として出回っているようである。「選んだのはあなた」だから「責任もあなた」。ただし、入手できる「情報=情況報告」には、雲泥の格差がある。この情報入手機関として担保されているのが、米国の公共図書館なのである。少なくとも今後図書館建設を考えている自治体もしくは市民団体も、単に読書の場としての図書館をとらえることなく、到来する「自己責任社会」に対する「情報入手保証機関」としての図書館を考える必要がある。そして「情報入手保障機関」として、我が自治体にはどのような施設が必要であるかの議論を重ねていただきたい。そしてその機関の運営が、従来の公務員制度の中では困難であると予想される時にはじめて、指定管理者制度による民間委託の検討があるのではないだろうか。また、公務員でさえ困難な仕事を受託する民間団体/民間企業の育成もまた、必要なことである。
 情報は力である。「自己責任社会」を担保する「情報入手機関」としての図書館。そして一人ひとりが必要とする情報を入手できることを保障し、住民の総合的な「情報力」を高め、自らが判断し、行動し、責任を負えるようになる。
 少子高齢化社会。まちの活性化。対処両方は様々だろうが、きちんとした図書館をつくることは、地域社会における漢方薬のように、じわじわと住民の体力(生きる力)を高めていくものと考えるのである。
 
※情報力:情報の入手、ふるい分け、判断材料として情報を活用できる総合力。広義のメディアリテラシー(=媒体素養)。
# by maruyama_takahiro | 2004-07-16 08:01 | 日々是電網

■そうか!情報って「情況報告」だったんだ。その5

■そうか!情報って「情況報告」だったんだ。その5
−可編集化:エディタブライズ (Editablise / Editablize)−

 食玩をご存知だろうか。最近のコンビニエンスストアで売っている「お菓子付きオマケ」である。アニメのキャラクターや、恐竜や生き物。戦車や昭和の道具など、様々なである。私自身も好きで、気に入ったシリーズがあれば「大人買い」することもある。塗装済み、組み立て済みであるから、ものの1〜2分で目の前に精密な模型が出来上がる。出来上がった模型を手に取っては、「ブーン」などといって飛ばしてみたりもする。そんな時にふと思うのだ。これも情報化のひとつ? いや、「情報化」という概念のもうひとつ上の「上位概念」があるのではないだろうか、と。
 さて、なぜ人は情報化するのか。
 一言でいえば、現実の有様を、個人でも編集可能な状態=可編集 (Editable) 化(Editablise / Editablize)にしたいからなのではないだろうか。そう考えると、情報化も食玩やプラモデルのような模型も、実は同じことをしていると感じるのである。

 自衛隊や軍隊、あるいは災害発生のシミュレーションなどで、『図上演習』ということがよく行われる。地図を広げ、それを取り囲みながら、様々な試行錯誤を繰り返し、問題点を明らかにするとともに、解決法を見つけ出す作業である。これもまた、現実の有様を可編集化(Editable)するものである。その図上に模型を並べることもあるだろう。あるいは石ころを戦車に見立てて、様々なシミュレーションを行うこともあるだろう。
 
 つまり、情報化とは現実を可編集化することに他ならず、検索/抽出/並べ替えなどの編集技法を用い、現実を把握することなのではないだろうか。
 そう。重要な事は「情報化=デジタル化/IT化」ではない。情報化とは、現実を可編集化するひとつの手法なのである。
 可編集化することで、様々な編集あるいはシミュレーション(試行錯誤)を行いながら、現実への対処法を組み立てていくこと。これは『情報化』においても『模型化/ミニチュア化』においても、同様なのである。
# by maruyama_takahiro | 2004-07-16 08:01 | 日々是電網

■そうか!情報って「情況報告」だったんだ。その4

■そうか!情報って「情況報告」だったんだ。その4
−アナログとデジタルの大きな誤解−

 「私はアナログ人間だから..パソコンはちょっと...」というような事を耳にすることがある。パソコンが苦手なことを、もっともらしい理由をつけているようにも思うが、アナログはアナログなりの長所や短所、デジタルはデジタルなりの長所や短所を知った上での、「アナログ人間」ならば、それはそれで存在する価値があると思う。
 多くの人は、「デジタル」の反対語(対をなす言葉)として「アナログ」をあげる。これはこれで間違いないのであるが、その場合の「アナログ」を指す対象に、大きな誤解がある。
 結論から言えば、「デジタル」と「アナログ」の違いは、『情報化の手法』という方法論において対をなす言葉なのである。これを「アナログ」を実物、「デジタル」を情報。と考えている人も少なくないのである。
  よく考えてみよう。例えば図書館において、書架(本棚)に並んでいる図書が『実物』である。この『実物』である本に対して、「目録カード」という情報化を行う。コンピュータが導入される前の図書館ではよく見られる風景であるが、一冊の本に対して、この目録カードを3〜4種類作成し、それぞれの使用目的ごとに小さな引き出しにいれる。利用者がまず探すのが、これらの「目録カード」であり、探している目録カードを見つけ、カードに記入されている請求記号をもとに、書架を歩き、目的の本にたどり着く。重要なことは、『実物』である本。『情報化』された『目録カード』という構図である。
  これはデジタルになっても変わらない。
  『実物』である本。『情報化』された『OPACシステム』という構図である。
  アナログであろうと、デジタルであろうと、それは情報化のための手段の違いでしかない。実物をさしてアナログということではないのである。この大きな誤解が、デジタルから人々を遠ざけている原因でもあると思っている。
 
※OPAC(おぱっく) Online Public Access Catalog : 図書館の蔵書検索システム。最近では検索した図書を予約する機能を有するものもある。(ただ...なんて Public Access なんだろうか? と疑問に思う丸山でした。Public Access って別のシーンで使われているもので....)
# by maruyama_takahiro | 2004-07-16 08:00 | 日々是電網